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アラフィフのおっさんが趣味の登山・写真・日常を綴るブログ。

関東大震災をよく知るために 〜横網町公園を訪ねて〜

こんにちは、GreenFielderです。

週末、娘を塾に送り出した後、私は下町(台東区墨田区)に向かっていました。

下町に向かった目的は二つあったのですが、その一つは「陸軍被服廠跡地」を訪れること。今読んでいる吉村昭さんの小説「関東大震災」で、この地で3万8千人もの人々が亡くなった、とあり、当時大きな空き地になっていて避難先としては適地だったとはいえ、そこが実際にどれだけの広さなのか、そしてその空間で3万8千人もの人間が亡くなるとはどういうことなのか、身をもって理解したいと思ったのです。

 

その日は浅草・スカイツリー錦糸町と歩き、もう一つの目的(追って記事にする予定)をこなした後、総武線でお隣の両国へ移動、そこから更に歩いて「陸軍被服廠跡地」の跡地に向かいます。

ちょうど国技館では9月場所を開催中で、力士や、お弟子さんや、「入り待ち・出待ち」の皆さんで賑わってました。

国技館を通り過ぎて暫く歩くと、横網町公園に到着しました。

なお、国技館の近くだからと「ヨコヅナチョウ」と読んでいたのは内緒です。。「ヨコアミチョウ」ですのでお間違えなきよう。

横網町公園は、関東大震災東京大空襲で亡くなった多くの犠牲者を慰霊するための公園です。

大きな慰霊堂と復興記念館、そしていくつかの慰霊碑も有ります。

公園に入って最初に出会うのが「三重塔」。

この中に関東大震災東京大空襲の犠牲者の遺骨が納められています。

ここで佇んでいると、後ろからやけに騒がしい声が。。

オナガでした。しかも沢山いて全然逃げないなぁ、と思っていたら、幼鳥でした。

まみやんさんのブログでそれに気付けたのですが、最初写真データを見た時「ISO感度上げたからオナガの頭の色が灰色になっちゃったのか」と誤解(笑)幼鳥のオナガは頭が灰色なんですね〜。

仲良く遊んでました。

さて、慰霊堂正面に向かう途中にこんな慰霊碑が。

震災直後の流言が元で虐殺された朝鮮人の慰霊碑でした(そうは書いてないけどきっとそう)。あらためて、吉村昭さんの小説に思いを巡らせます。

更に東京大空襲のモニュメントを横目に、、

慰霊堂正面に回り込みました。

入り口には関東大震災100年」の垂れ幕が。

ちなみにこの建物の完成は1930年ですから、この建物は東京大空襲を生き延びたということだと思います。

公園の傍には、関東大震災後の当地での火災旋風で捻じ曲げられた鉄の塊。

火災旋風の威力を見せつけられます。

そして次に復興記念館

この中は展示室になっていますので、中に入ってみます。ちなみに無料です。

中は、1階が関東大震災の展示、2階は東京大空襲の展示になっていました。どちらもおぞましい写真が展示されてました。今回は関東大震災の展示にフォーカスします。

数々の写真・遺品が展示されていましたが、目を引いたのは、報道で使われた「フェイク写真」です。当時新聞社が、現地被災状況をより劇的に見せるために、火災の黒煙を写真に追加したり、場所を偽り、背景の建物などを消したりしていた、というのです。当時から「フェイク・ニュース」は存在していたんですね。

展示室には当時の地図も有り、これで当時の「陸軍被服廠跡地」の規模が大体分かります。

今の横網町公園と、その南側のエリア(現在の江戸東京博物館の手前まで)が敷地だったようです。

 

【注意】この後にインパクトの強い写真含まれます。そういうのに弱い方は写真を飛ばしてください。

 

次のパネルに、当時の火災旋風と、それによる被害状況の説明が有りましたが、パネル左下の写真に目が止まりました。

折り重なるように倒れたたくさんの遺体。遺体の密集度合いから、当時どれだけの人々がこの狭いエリアで激しい炎に囲まれたのか、この酷い写真が端的に示していました。

こんな情景がこの敷地全体に渡って広がっていたのだと思うと、胸が苦しくなります。吉村昭さんの小説を読んだ後だと、その時の阿鼻叫喚の状況が想像できてしまい、更に苦しい。

でも、目を背けてはいけない事実です。

 

きっとこの地を訪れたことのない方もいらっしゃると思います。

広島の平和祈念公園原爆資料館と同様に、多くの人がここを訪れ、過去の震災の教訓を心の痛みと共に胸に刻んで頂けたらと願って止みません。

 

最後までご覧頂きありがとうございました。

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