こんにちは、GreenFielderです!
私が米国フロリダ州に出張していることは以前の記事で書きました。
お陰様でハリケーン「イダリア」の被害がほぼ無い街に滞在していたので、出張タスクに集中して取り組むことが出来ました。
イダリア最接近前の朝の光景と、イダリア通過後の夕景が美しかったので、写真を掲載します。
さて、米国出張の際に私のルーティンとなっているのが「文庫本購入」です。機内での暇つぶしや、出張が週末を跨ぐ場合のために、大体2〜3冊の文庫本を買い、荷物に忍ばせるのです。機内で映画にハマってしまった場合(笑)や、週末を挟まない出張の場合は、全く読まずに帰国することも有りますが、今回は週末を跨ぐことになり、購入した3冊の文庫本を読み始めることにしました。
まず手に取ったのは、やはり山関連の本(笑)神長幹雄編「山は輝いていた」(新潮文庫)です。
この本は、編者が山に関する13人の著者の文章を一部抜粋すると共に、その書物及び著者に関する解説を編者が行う形式となっています。
この記事を書いている時点では、まだ読み終わっていないのですが、初めからそれぞれの著者の抜粋文章も著者に関する解説も、何か引き込まれるような感覚を覚えます(きっと自分が山好きだからなのでしょうけれど)。
その中でも特に印象深い、というより強い共感を覚えたのが、「田淵行男」さんの文章でした。田淵行男さんは、1989年にお亡くなりになられていますが、戦後安曇野に居を構えて、山岳写真を撮り、高山蝶を観察・研究し、蝶の細密画を書き、と様々なことに打ち込んでこられた方で、安曇野には田淵さんの記念館も有るようです。
その田淵さんの文集「黄色いテント」から抜粋された文章が、完全に私の思いと一致していてすっかり共感してしまったのです!
以下が私が共感したポイントです。
1. 単独行にこだわる理由
まずは田淵さんの文章からの抜粋です。
「この頃私は時折気のおけない若い山仲間と山行を共にすることもあって、それはそれなりに結構楽しかった。だがその場合の山旅の中味は、独り歩きの場合とはだいぶ異質なものになってくる。」
「・・・マイペースがひっこみ、かなり妥協的になり、自主性が大幅に後退していくのに気がつく。その点独り歩きの場合は違う。納得いくまで山が眺められ、気がすむまで道草を食い、好きなだけ山と向かい合っていられた。」
「大勢でがやがや歩いては、例えば鳥の鳴き声ひとつにしても、仲間同士の話声に消されて、耳には届かないし、足元をよぎっていく小さな山の動物たちの姿や足音にも、気づかずに通り過ぎてしまうことが多い。」
「・・・私の山へ求めるものの第一は、静けさ、あるいは疎外感ということができる。つまり、山という隔絶の中で、自分を見つめてみたい、ということになり、それを裏返しにいうと、私には静かな山ほど孤独感にすぐれた高級な山といえる。」
「・・・別の言い方をすると、私にとって山の魅力は、その隔絶度ということであり、山行の意義は、原始の香り高い無傷な自然に浸ることだと言えると思う。」
もうここまでの文章で、私は「ああ、この人の言っていることは私の思いを代弁してくれてる」と思いました。私の思っていることを高度な文章で書くとこうなる、という感覚です。
ちょうどこのブログを始める直前に、私は会社の若手と二人で箱根の山を歩いたのですが、私にとっては家族以外の人と山に登った久し振りの山歩きでした。
山を歩いている時も下山後の温泉も、打ち上げ飲みもとても楽しかったのですが、山歩き中はどうしても相手に気を遣ってしまいました(おそらく若手も年の離れたオッサンとの山歩きでかなり気を遣ったはず)。
そうすると、どうしても我儘に途中で止まって周囲の情景に浸ったり、鳥の声を聞いてその鳥を探したり、というのが難しくなります。更に言うと、始めに計画したルートを気儘に変更するのも憚られます。
同じ山行ですが、その山行の「どこに楽しみを求めるのか」が全く変わってしまうのです。
そして、私も田淵さんと同様に、山行では「静けさ・疎外感・隔絶」を欲するタイプであり、そういう中で「思う存分好きなように自然に浸る」のが私の登山の最大の楽しみなんだな」という結論に達しました。
2. 単独行 vs 集団登山(リスクの観点)
更に田淵さんは「群衆心理の陥穽」と題し、単独行とパーティー登山のリスクについて、次のように綴っています。
「確かに山の事故といえばすぐに単独行というふうに、批判されるケースが目立つ。・・・通常平易な夏山シーズンまで一様に扱うには、若干問題がありそうに思われる。」
「・・・登山の急速な大衆化に伴い、パーティーの連帯感、責任感の弱体化によるもので、・・・昔のように、遭難事故処理の上で、必ずしも安全で有利とはいえなくなってきたように思われる。」
「・・・ごく安易な即製のパーティー、混成パーティーがふえ、メンバーの団結意識や、体力、技術、道義心の低下、不揃いの傾向を考えると、少なくとも一概に、パーティーなるが故に安全とする先入観は見直す必要があるし、また遭難というと、ただちに単独行と短絡させるのも一考を要する。」
「私には最近の登山人口の急激な増加による、登山者の質の低下が事故多発の原因のように思われる。」
そして筆者は、ザイテングラート(涸沢から穂高小屋の間にある岩稜帯)脇の雪渓と槍沢の雪渓で目撃したパーティー仲間の牽制が引き起こした事故例と、白馬岳付近で落雷の危険が有る稜線を群集心理で平然と歩くパーティーの例などを挙げ、「パーティーなるが故の遭難事故につながる危険性」に触れています。
なお、上記「黄色いテント」が刊行されたのは1989年の話です。そして奇しくも刊行された年に「立山中高年大量遭難事故」が発生、その後も「吾妻連峰雪山遭難事故」(1994年)、「トムラウシ山遭難事故」(2009年)など、いたましい大量遭難死事故がその後も発生しています。いずれも「気象遭難」(急激な天候の変化で遭難するケース)では有りますが、いずれの事故も集団登山の中でその予見・対処を誤り、結果大量の遭難死者を出しています。
田淵さんは、そんな未来を予想していたのでしょうか?
私が先日記事にした、富士山「弾丸登山」においても、単独行で有るが故の遭難よりも、集団で有るが故の「登山の楽観視」「甘えによる準備不足」に起因するものが多いと感じます。
3. 自然の中で一夜を明かすことで甦る人間の本能
再び田淵さんの文章(氏の結論部分)を抜粋します。田淵さんは、オフシーズンの南アルプス・甲斐駒ヶ岳への山行で無人の七丈小屋に眠る場所を求めた際に、広々とした部屋の中央でなく、狭い戸棚を選んだことを例に挙げつつ、以下ように書いています。
「・・・平素の生活では全く不必要な、従って気にもかけない対応というか、原始の残像ともいえる全く別の生活意識が、一人の山ではごく自然に、しかも切実な必要性を伴って、当然なこととして浮上してくるのである。」
「私にとって単独行は、人類の原点とめぐり合う回帰の旅であり、同時に、私の中の野生を模索する遍歴でもあった。」
私は山中泊を許されぬ身ですが、(その代わり)ナイトハイクをします。ナイトハイクでは「睡眠時の身の危険」の感じ方とはちょっと異質な「自然への恐怖と警戒心」が有ります。眠っている時に襲ってくる自然は能動的なはずですが、ナイトハイク中は「出会い頭」というケースが有り、寧ろこちらが自然の中に積極的に入り込むことで発生します。
・・・難しいことを言ってますが、つまり「お邪魔します!」「皆さんの生活には害を与えない者ですので、襲ってこないでね!」と心の中で訴えながら登っている感じです。
どちらのケースでも全くの自然の中で夜の暗闇を過ごす点に変わりはなく、自然の脅威を最も肌で感じる時間ではないでしょうか。
*過去に書いた関連記事はコチラ↓
1項で述べた「静けさ・疎外感・隔絶」を得るのと引き換えに、自然の脅威も受け入れ向き合う。これが真に「自然に浸る」ということなんだろうな、そしてそれが「ソロ・ナイトハイク」であり、私がその魅力に引き込まれる理由なのだと思います。
登山の楽しみは皆それぞれで良いと思っていますので、私の登山スタイルを勧めるつもりもなく、もしこの記事を読んで「へぇ、そんなスタイルもあるのね」と思って頂けたら嬉しいです。
最後までご覧頂きありがとうございました!
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