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アラフィフのおっさんが趣味の登山・写真・日常を綴るブログ。

フリー・ソロというスタイルについて考えてみる。

こんにちは、GreenFielderです!

今回の記事では、米国出張の往復の機内で見た、「フリー・ソロ」という映画の紹介と、フリー・ソロに挑むアスリートの心理について、思うところを書いてみます。

 

皆さん、「フリーソロ」ってご存知ですか?

「ロック・クライミング」、つまり岩登りのジャンルの一つで、「複数人でのパーティーを組まず、一人で、且つロープやハーケンなどの道具を使わずに岩を登っていく」スタイルです。

これは普通、推奨されないどころか、危険すぎるので禁止される方式です。何故なら、一つのミスが死に直結するからです。

岩登りでは、通常体にハーネスを付け、そこに命綱をつけて、その命綱を至近の岩などに固定したハーケンなど支点になる所を通すことで、もし落下しても、支点と支点を通した命綱を下で「確保(ビレイ)」している人の体重で支えることで完全に墜落するのを防止します。

*言葉では分かりづらいので、以下を参照ください。

machicon.jp

 

そもそもロック・クライミングは垂直に近い岩を登っていくもので、途中落下せずに登り切ることが「成功」です。成功するまでには、トライしては落ちてを繰り返すことで「練習」していく必要があるわけです(もちろん最初から落ちないに越したことはないのですが)。

落下した時に、命綱が無かったらどうなるでしょう?

そう、地面に叩きつけられます。

地面と言っても砂場や低木の茂みなどでは無く、岩場であることが大半です(岩を登ってるわけですから)。従って、ほんの数メートルの高さであっても、落ち方が悪ければ命を落とします。ましてや10mを超えるような高さから落ちれば、まず命は無いでしょう。

例え命綱を付けていても、落ちた衝撃で支点のハーケンが外れたり、命綱自体が摩擦や荷重で切れてしまったりすれば、致命的なことになります。そのようなロッククライミングでの死亡事例は多いと思います。

そんな、ただでさえ危険なロッククライミングを、命綱も付けずに「成功」させよう、というのが「フリーソロ」です。

映画の中で、元フリーソロクライマーは言います。

「フリーソロで大岩壁の登攀を成功させるのは、オリンピックで金メダルを取るのに等しい難しさがある。オリンピックと違うのは、金メダルが取れないということが、死を意味するということだ。」

そのフリーソロで、米国カリフォルニア州にあるヨセミテ国立公園「エル・キャピタン」という1000m近い垂直の一枚岩を登攀した、アレックス・オノルドをカメラが追い続けたドキュメンタリー映画が「フリー・ソロ」です。

この映画はアマゾン・プライムなどでも見ることができるようなので、高所恐怖症でない方は是非見て頂きたい(高所恐怖症の方には映像を見てるだけでも心臓に悪いかもしれません)。

彼らフリーソロクライマーは、もちろん事前に何度も命綱を付けて登攀練習を繰り返し、危険なポイントとその対処法をマスターしてから本番に挑みます。アレックスもそのように入念に準備して登り始めますが、一回目は途中で引き返しています。おそらく「嫌な予感」がしたのでしょう。そして一年後、改めて挑戦して無事登攀を成し遂げたのです(登攀の過程は手に汗握るし、見てるだけなのに緊張して体がこわばりました)。

彼が登攀を成し遂げた時に発した、"So delighted"という言葉、とても深い思いが込められていたように感じました。

そして、アレックス本人だけでなく、彼を取り巻く人々の心の葛藤も映画の中で出てきます。母親、恋人、登攀を撮影しているカメラマン達、クライマー仲間。特に、アレックスが最も危険なポイントに差し掛かった時に、カメラマンが「もう見てられない」とファインダーから目を逸らすシーン、そのアレックスが登攀成功後に電話越しで恋人が(初めは冗談を言いつつ祝福するも)最後に堰を切ったように号泣するシーン、どちらもアレックスの「最悪のケース」を考えているからこそのシーンで、ドキュメンタリーである分痛いほど気持ちが伝わってきました。

 

それにしても、彼、そして彼らフリーソロ・クライマーは、なぜ死を賭けてまでそんな危険なスタイルを貫くのでしょうか。常人の私にはその心境が全く理解できません。

映画の中で、MRIを使ってアレックスの脳の動きを分析するシーンが出てきます。その結果、彼には恐怖心を抑制する能力があるようでした。まあそうですよね。そうじゃなきゃ数百メートルの断崖絶壁で命綱無しで立っていることも出来ないでしょうし、高いビルから下を見下ろすと感じる「吸い込まれる」ような感覚で、谷側に重心が傾いて落ちてしまいそうです。そんな場所でも平常心で体のバランスを保ちつつ、殆ど手掛かりのない岩場を登っていくためには、そういう精神コントロール力は絶対必要だと思います。

ということで、「登れる精神力」は分かるのですが、「登りたくなる欲求」はどこから来るのかは、やはり分かりません。

死のリスクを感じることで逆に生きていることを実感できるから?

そこまで自分を追い込んで始めて「充実感」を味わえるから?

自分の精神的、肉体的限界を知りたいから?

この辺りの精神状態は、あの山野井泰史さんのそれと通ずるところがあるような、何か違うような。。。

 

私は、基本的に安全登山派(?)です。元々慎重な性格でもあります。でも、高所恐怖症ではなく、高度感のある切れ落ちた岩場で足がすくむ、ということも有りません。むしろ、そういうところからの障害物の一切無い大展望が好きです。尾根歩きの途中で急峻な岩場が出てくるとワクワクします。剱岳、三大キレット、八海山、いずれも歩いてみたい。ロッククライミングも興味が無くは有りません。

でも、フリーソロは無いよなぁぁ。。

 

最後までご覧頂きありがとうございました!